2017年2月17日金曜日

牧野伊三夫展 展示によせて

今週末2/19(日)まで開催の牧野伊三夫展。
この展示に牧野さんが寄せた文がとても良いのでこちらでご紹介いたします。
会場の作品とあわせて、ご覧頂ければ幸いです。



作品について         牧野伊三夫
 
 僕は東京で『四月と十月』という美術同人誌を作り、画家の活動を行なっているのだが
秋田にその本を大事に取り扱ってくれる「まど枠」があったのはうれしいことだった。
そんな縁から今回、秋田での初めての個展をすることになった。
  南国九州の生まれ育ちで、北国の秋田にはずっと憧れのようなものがあった。
秋田の人にはのんきなものだと笑われそうだが、僕にとっての雪の景色はたまらなく
美しく思え、その景色を求めて何度がスケッチに来たこともある。あるとき内陸鉄道に乗って、雪山が美しい戸沢の駅で降り、深い雪のなかを歩いて描いたこともあった。
水性のパレットや画用紙の上に雪が降り積もって、どこに何色があるのか、何を描いているのかわからなくなり、適当に筆を突っ込んでシャーベットのような雪と絵の具の塊を筆にとって描き続けた。駅で雪を振り払って乾かすと、思いがけない絵が出来ていて、
それが面白かった。
 僕は絵を描く時に、下絵を描いて計画通りに進めて行くことに意味を見出すことができない。いつも、最初に思惑を何者かによって打ち砕かれ、思いがけないところへたどり着くことを期待して描いている。予定調和ということが嫌いなのである。だから、そのときい雪にまみれて描けたことはうれしいことで、心のなかで「雪の中でしか描けない絵があるぞ」と何度も叫んでいた。
 今回展示した作品についても、そのときの雪のように、音楽と交わって描いた作品が数点ある。音楽と絵の境界を取り払い、互いに刺激し合って制作をすることは、もう二十五年ほど前からずっと続けている研究で、一昨年刊行した拙著『僕は、太陽をのむ』に詳しく記した。
 『トゥンガ』は、マダガスカルを旅したとき、日暮れて道に迷い、数時間密林の中をさまよって、ようやく目的のホテルにたどり着いたときに、道案内人のマダガスカル人たちが発した言葉であるGPSもなく、星も見えない場所で、彼らは人間が本来持っている天然のカンだけを頼りに車を走らせた。そのような能力に感動して、数枚書いたもののうちの一点。「縄文通信機」も同じく、現在の発達しつづけている人口の通信機ではない、人間に本来備わっているテレパシーのような能力と対峙したいと描いたものである。
 「ベロウゾフ・ジャボチンスキー反応」は、液体が自らの力で青や透明に色を変化させるという化学現象をモティーフに製作した。僕はしばしば、現象とか、原理というものが美しいと思う。
 「非合理主義者の像」は昨年から制作を始めたもの。合理主義自体は嫌いではないのだが、この頃あまりにも世の中の合理化が一元的に進行し、その陰で伝統的な職人技や絵のモティーフとしたい風景が消えていくのを嘆いて作り始めた。絵描きは、どこまでも非合理主義者なのである。
 荒地花笠というのは、南米原産の植物の名。少年時代、かまきりが好きで良く穫りに行ったのだが、この草にとまっていることが多く、棒の原風景のひとつとなっているものである。
 「螺旋階段とビルのある風景」は、秋田で良くとまるホテルの部屋から見た風景。「風のまち」は、能代の街を旅したときのスケッチをもとに描いたものである。かつては林都として栄えたこの街の林業はすっかり衰退してしまっていたが、米代川から街のある岡の上に吹いてくる風は、なんとも心地よかった。